社長日記…金メダリスト
一月十八日にアクロスで、福岡同友会の新春講演会がありました。
今年の講演者は、バルセロナオリンピックで、金メダリストになられた、柔道の古賀稔彦さんでした。
彼は平成の三四郎と言われ、小柄ですがとても強くて有名でした。
古賀さんはソウルオリンピック、バルセロナオリンピック、アトランタオリンピック、と三回オリンピックに出場されました。
最初のソウルオリンピックでは、プレッシャーに負けて三回戦で敗退されたそうです。
東京から出発する時には、大勢の報道陣とファンに送り出されました。
彼は優勝候補でした。
それが、まさかの三回戦敗退です。
東京に帰ってきた時には、誰も出迎える者はいません。
彼は人間不信になりました。
今年の講演者は、バルセロナオリンピックで、金メダリストになられた、柔道の古賀稔彦さんでした。
彼は平成の三四郎と言われ、小柄ですがとても強くて有名でした。
古賀さんはソウルオリンピック、バルセロナオリンピック、アトランタオリンピック、と三回オリンピックに出場されました。
最初のソウルオリンピックでは、プレッシャーに負けて三回戦で敗退されたそうです。
東京から出発する時には、大勢の報道陣とファンに送り出されました。
彼は優勝候補でした。
それが、まさかの三回戦敗退です。
東京に帰ってきた時には、誰も出迎える者はいません。
彼は人間不信になりました。
それからしばらく、何もする気が起こらず、家でゴロゴロしていました。
その時たまたま、テレビのスイッチをいれました。
そうしたら、オリンピックの映像がながれていました。
それも自分が負けた時の映像です。
それを観ていると、試合後の映像が、観客席を映していました。
そこには、古賀さんの御両親が、会場に背を向け、観客席に向かって、何度も何度も頭を下げている姿が、映っていました。
それを観た時、物凄くショックを受け、戦っていたのは自分一人ではなかったんだ、と気付きました。
両親を初め、多くのファンの方達、柔道関係者の人たち、みんなが共に戦ってくれていた事に気付いて、もういちど金メダルに挑戦しようと決心しました。
それから猛練習をして、バルセロナオリンピックに、出場しました。
そこでまた、アクシデントが起こります。
吉田秀彦選手と練習中に、靱帯損傷の大怪我をします。
歩くのに一ヵ月、柔道をするのに一年かかる、という診断。
普通だったら、そこで諦めます。
しかし、その時心の声が聞こえて来ます。
「絶対に金メダルをとれる」
この四年間、「諦めからは、何も生まれない」と、自分に言い聞かせて生きてきました。
それで心が強く大きく成りました。
それから、二週間治療に専念して、減量の為ほとんど飲まず食わずでした。
一パーセントの可能性に、強い思いをぶつけました。
試合当日、ほとんど歩けない状態で、足に麻酔を打って試合にのぞみます。
見事、金メダルです。
「諦めからは、何も生まれない」と、言い聞かせて生きていこうと思います。
その時たまたま、テレビのスイッチをいれました。
そうしたら、オリンピックの映像がながれていました。
それも自分が負けた時の映像です。
それを観ていると、試合後の映像が、観客席を映していました。
そこには、古賀さんの御両親が、会場に背を向け、観客席に向かって、何度も何度も頭を下げている姿が、映っていました。
それを観た時、物凄くショックを受け、戦っていたのは自分一人ではなかったんだ、と気付きました。
両親を初め、多くのファンの方達、柔道関係者の人たち、みんなが共に戦ってくれていた事に気付いて、もういちど金メダルに挑戦しようと決心しました。
それから猛練習をして、バルセロナオリンピックに、出場しました。
そこでまた、アクシデントが起こります。
吉田秀彦選手と練習中に、靱帯損傷の大怪我をします。
歩くのに一ヵ月、柔道をするのに一年かかる、という診断。
普通だったら、そこで諦めます。
しかし、その時心の声が聞こえて来ます。
「絶対に金メダルをとれる」
この四年間、「諦めからは、何も生まれない」と、自分に言い聞かせて生きてきました。
それで心が強く大きく成りました。
それから、二週間治療に専念して、減量の為ほとんど飲まず食わずでした。
一パーセントの可能性に、強い思いをぶつけました。
試合当日、ほとんど歩けない状態で、足に麻酔を打って試合にのぞみます。
見事、金メダルです。
「諦めからは、何も生まれない」と、言い聞かせて生きていこうと思います。
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