社長日記…高野山 奥の院
先日ブログに、東寺について書きましたが、空海ゆかりのもう一つのお寺に、高野山があります。
空海は二十代の頃、全国の山を歩きながら、修業していた時期があります。
唐に渡る少し前まで、山伏のような修業をしていたそうです。
日本に帰ってきて、東寺を賜りそこを、造営していきました。
その後に修業する場所を、新たに創る事になりました。
若いときに全国を修業していた場所で、一番良いと思った場所が高野山でした。
そこで、その場所に修業する為のお寺を造りました。
販社の達成旅行で、二回程行きました。
高野山にはたくさんのお寺があります。
全国からお参りに来られる方が多く、各県によって宿泊されるお寺が決まっているそうです。
高野山は盆地になっていて、独特の雰囲気で、特別な空気に包まれています。
空海は二十代の頃、全国の山を歩きながら、修業していた時期があります。
唐に渡る少し前まで、山伏のような修業をしていたそうです。
日本に帰ってきて、東寺を賜りそこを、造営していきました。
その後に修業する場所を、新たに創る事になりました。
若いときに全国を修業していた場所で、一番良いと思った場所が高野山でした。
そこで、その場所に修業する為のお寺を造りました。
販社の達成旅行で、二回程行きました。
高野山にはたくさんのお寺があります。
全国からお参りに来られる方が多く、各県によって宿泊されるお寺が決まっているそうです。
高野山は盆地になっていて、独特の雰囲気で、特別な空気に包まれています。
特に本堂から、奥の院へ歩く参道の眺めは圧巻です。
両側に延々とお墓があります。
それも、日本全国の有名企業の慰霊碑、個人の墓、有名人の墓、歴史上の人物の墓など何万という墓があります。
徳川家康、豊臣秀吉、親鸞、日蓮、諸大名の墓など見ていてあきません。
地元にもそれらの、正式な墓はあるそうですが、やはり空海の側に眠りたいと、ここに墓を建てたそうです。
一年ほど前に行った時に、ガイドさんの説明で、最近織田信長の墓が見つかった事を聞きました。
誰が建てたかは、よく解らないそうですが、専門家に調べてもらったところ、年代や墓の記述から、本物だと云うことです。
織田信長は、比叡山を焼き討ちしたので、仏敵という扱いを受けています。
しかし、さすがに高野山のお坊さん達は、懐が深くその信長さえも、ここで眠らせ供養しているのです。
私はその事に深く感動しました。
許すというだけでなく、その魂さえも救おうとする、空海の弟子達がいたわけです。
ここに多くの魂が、集まって来る意味が解るような気がします。
その参道をしばらく歩いて行くと、三途の川と呼ばれるところがあります。
そこを渡ったら、奥の院の敷地になります。
そこからは、写真撮影も禁止です。
そこからまた、空気がより荘厳な雰囲気に変わるような気がします。
そこに立っているだけで、自分の魂の禊ぎをしているようです。
その場所をもう少し歩いて行くと、階段があります。
その階段を上るといよいよ奥の院のお寺があります。
つづく
両側に延々とお墓があります。
それも、日本全国の有名企業の慰霊碑、個人の墓、有名人の墓、歴史上の人物の墓など何万という墓があります。
徳川家康、豊臣秀吉、親鸞、日蓮、諸大名の墓など見ていてあきません。
地元にもそれらの、正式な墓はあるそうですが、やはり空海の側に眠りたいと、ここに墓を建てたそうです。
一年ほど前に行った時に、ガイドさんの説明で、最近織田信長の墓が見つかった事を聞きました。
誰が建てたかは、よく解らないそうですが、専門家に調べてもらったところ、年代や墓の記述から、本物だと云うことです。
織田信長は、比叡山を焼き討ちしたので、仏敵という扱いを受けています。
しかし、さすがに高野山のお坊さん達は、懐が深くその信長さえも、ここで眠らせ供養しているのです。
私はその事に深く感動しました。
許すというだけでなく、その魂さえも救おうとする、空海の弟子達がいたわけです。
ここに多くの魂が、集まって来る意味が解るような気がします。
その参道をしばらく歩いて行くと、三途の川と呼ばれるところがあります。
そこを渡ったら、奥の院の敷地になります。
そこからは、写真撮影も禁止です。
そこからまた、空気がより荘厳な雰囲気に変わるような気がします。
そこに立っているだけで、自分の魂の禊ぎをしているようです。
その場所をもう少し歩いて行くと、階段があります。
その階段を上るといよいよ奥の院のお寺があります。
つづく
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